阿留邉畿夜宇和(あるべきやうわ)

あるべきやうわ

「あるべきやうわ」とは、鎌倉時代の高僧明恵上人の遺訓です

わたしは、京都在住の時にこの言葉に出会いました

人は阿留辺畿夜宇和と云七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり、乃至帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此あるべき様を背く故に、一切悪きなり。

假名法語集』(岩波書店、初版1964年)に、宮坂宥勝校注「栂尾明恵上人遺訓」

人は「あるべきやうわ」という七文字をたもつべきである。僧侶は僧侶の「あるべきよう」。在俗の者は在俗の者の「あるべきよう」である。および帝王は帝王の「あるべきよう」、臣下は臣下の「あるべきよう」である。(それぞれが)この「あるべきよう」に背いた行いをするために、(社会の)すべてが悪く、おかしくなるのである。

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明恵上人は、「文化史的に個人の、異常ともいえる内的体験に主体的に取り組んだ本邦では最初の人」という讃辞を受けており、世界でも稀に見る、生涯にわたって夢を記録し続けておられた方です

この夢の記録を、日本におけるユング心理学の第一人者といわれる河合隼雄先生がその立場から論じられたのが『明恵 夢を生きる』です

「阿留邉畿夜宇和」と記されたことばが持つ意味を、河合隼雄先生が説き解かれていますので、以下に引用したいと思います

日本に心の世界を伝えた故河合隼雄先生

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『このような例に接すると、日本人としてはすぐに「あるがまま」という言葉に結びつけたくなるが、

わざわざ「あるべき」と、「べし」という語が付されているところに、意味があると感じられる。

このような日々の「もの」とのかかわりは、すなわち「こころ」の在り様につながるのであり、それらをおろそかにせずに為し切ることに、「あるべきやうわ」の生き方があると思われる。

そこには強い意志の力が必要であり、単純に「あるがままに」というのとは異なるものがあることを知るべきである。

明恵が「あるべきやうに」とせずに「あるべきやうは」としていることは、「あるべきやうに」生きるというのではなく、

時により事により、その時その場において「あるべきやうは何か」という問いかけを行ない、その答えを生きようとする

極めて実存的な生き方を提唱しているように、筆者には思われる。』(『明恵 夢を生きる』河合隼雄・1987・講談社

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その意味で、明恵上人によって残されたこのことばは、常にその時その場において「最適」な状態に在ることに意識を置きつつ自分自身を生きる、ということと繋がっていると思えるのですが、いかがでしょうか?

それでは、具体的にどんなことで「最適化」が図られることになるのでしょう

その一つの手がかりについては『「使命」と「使命」ことはじめの記憶』をご覧ください。