ほんとうの「し・あ・わ・せ」って?
かの宮沢賢治は、彼の作品『銀河鉄道の夜』の中で、主人公ジョバンニにこう言わせています。
『「さあ、やっぱり僕はほんのひとりだ。もうきっと行くぞ。ほんたうの幸せをきっときっとさがしあてるぞ。」
そのときまっくらな地平線の方向から青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中は明るくなりました。そしてのろしは高くそらに向かって光りました。
「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、
私たちのお母さんのために、
カムパネルラのために、みんなのためにほんたうの幸せをさがすぞ」』
賢治にとっての「ほんたうの幸福」とは、どうやら一人だけ(個人)のものではなかったようです。
他の作品の中でも賢治は、
『世界中が幸せにならなければ個人の幸せはない』とまで言っています。
ところで、
わたし達は賢治の、、、とまではいかないにしても、
どのような「ほんたうの幸せ」を求めているのでしょう。
そして、
そもそも何を幸せとしているのでしょうか?
名誉を得る、
財を成す、
子供に恵まれる、
有名企業に就職する、、、
さらに言えば社会的に高く評価されること?
きっと、そうしたことも恐らく「しあわせ」の一つの実現であると言えるでしょう。
それでも、、、
財を為しても、名誉を得ても、それを「しあわせだ」と感じられるかどうかは別物のようだと薄々感じられる方も多いのではないですしょうか?
わたしは、そういったことを超えたところ、
つまり、
賢治が言っていることの「ほんたうの幸せ」というのは、
隠されてしまっている真実の「わたし」(精神的個=霊性)を発見すること。
そして、
この地球のために、
自らを創造的な存在として霊的な進化をして、この世界そのものの進化に貢献することではないかと考えています。
生きること、そのこと自体がすでに創造を孕んでいることなのです。
そう、
それは、、、
このHPのトップページであなたに質問したものです。
『あなた自身を地球上の魂と考えて、あなたの使命とどのような方法で、ひとりの人間が世界をより佳くできると思いますか?』
というこの質問に、やっと答えられそうな準備ができてきました。
社会的個と
精神的個
ところで、
わたし達は近代科学主義の洗礼を受け、学校教育で科学を学ぶ経験を経て成人していきます。
その結果、現実の役割だけ、そして肉体が自分自身だと思いこんできています。
これは、普通のわたし達の感覚だと当然と言えば、当然なのですが、、、。
何より、、、そういった社会的個は社会での役割として見つけやすく、
また手応えはあるとは思うのです。
でも、社会的な役割からリタイアーしたときにも、同じように手応えを感じることはできるのでしょうか?
それに、、、
ちょっと飛躍しますけれど、こんなことも言えませんか?
社会での役割がなくなったら、あなたは一体どこで「じぶん」が「じぶん」であることを確認するのでしょうか?
ねっ!!
社会的個(社会の一員として役割を生きてきたあなた)は精神的個(役割としてでないあなた自身そのもの)とは違う感じがしませんか?
役割はある意味で「仮面」といえます。
仮面は英語で性格を表す言葉は「パーソナリティ(personality)」と言います。 (これはギリシャの仮面劇で使われるペルソナ(persona:仮面)というラテン語の言葉からきています。)
つまり、性格や人格の言葉の由来は「仮面」なのです。
だとしたら、その仮面を剥いだときその下に沈み込められていた真実のじぶんの姿は、いったいどのようなものなのでしょう?
つまり、実はわたし達はまだ「ほんとうのじぶん」を確認などしていないとさえ言えそうです。
だからこそ、
じぶんが名前を持つというコト、
しかも、その奥底には『ほんとうのなまえ』が封じ込められていること、そこに目を向けて欲しいのです。
だってその「名前」にこそ、、、
あなたがあなたであることの証である霊性が託されているのですから。
仮面の奥に託されたナニモノカ(それを生み出している大元)があることに気づき、この世界への応答を続けていくことの延長線上で、
あなた自身の「本当のし・あ・わ・せ」をきっと見出すことになるでしょう。
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