日本の四季と篆書

篆書は祈りの文字

「篆書」の起源がいつ頃であったかを正確に知ることはできません。

今よりはるか昔にこの文字は生まれ、そして神聖文字(ヒエログラフ)として体系化されています。

これらの文字は、神官などが神々と対話する際に用いられてきたそうですから、

この文字は、人と人とのコミュニケーションを行うというよりも、

神と人とのコミュニケーション(祈り)を司るために生まれた文字だと言われています。(詳しくは『漢字の起源』そもそもをご覧ください)

そのため、この文字の中には人々の切なる祈り、願いをはじめとしする諸々の想いが込められていて、いわば心の缶詰のような文字なのだそうです。

その意味で、篆篆書はいわゆる文字や記号ではなく、「祈号」と呼ぶのが良いかもしれません。

この篆書の奥義や秘伝は一切公開されていませんが、宮中行事や神殿での祈祷、寺院での火事にはその伝統が引き継がれているとのことです。

また、

陰陽二元論の世界で言えば、二つの「氣」が抵抗なく混ざり合う状態のことを「和気」というのですが、

陰の世界と陽の世界は、同じ時間に同じ場所に存在しているとも言われていて、

この二つの氣を抵抗なく吸収して蓄積し、放射することができるのが「篆書」であるといわれています。

『天の氣、地の氣、人の気が和して、和気あいあいとなる』(塩小路光孚)

また、篆書にはいろいろば決まりがあり、線の書き方、特別な技法などなど複雑です。

また、書類(文字の形の様々な種類)はとても多く、

例えばこの篆書は「寿」なのですが、この文字に至っては数100から1000字くらいの字形が知られています。

わたしが家元から言われたのは、

『暖かく、清潔で柔らかい美しさを中心にして、うちから沸き起こる、楽しみに満ちたエネルギーを白い紙という宇宙に注ぎ込むことで、優美に自己を表現せよ』ということでした。

端的に言えば、『穏やかで暖かい文字』の表現を求められていたのでした。

四季と儀礼と篆書

もともとこの「篆書」は、日本の四季と関わりのあるもののようです。(以下、家元著『東風吹かば』星と森刊 から引用してお伝えしてまいります。)

日本の国は春夏秋冬の四季が美しく移り変わりますが、この美しい四季と「節」を大切にしてきた日本人の暮らしには深い関係がありますし、

また、日本人は古来より節(せつ・しち)を大切にしてきています。

「節」とは一年の中でも、特に「氣」が大きく変化する時だそうで、この重要な時をどのようにして過ごせばよいかが重要だったようです。

ですので、この重要な時のすごし方によって、その後の人間の寿命や運勢も変わっていくと考えられてきました。

そして、その「節」は需要な占いを行う時でもあったと言いますし、いろいろな願いや思いなどを、神仏に聞き届けてほしいと祈る時でもあったのだそうです。

ちなみに沖縄は古層の息づく地域も多いのですが、八重山諸島の西表島にある「祖納(そない)」や「干立(ほしだて)」では、

季節の折り目の時として「節祭(シチ)」が行われます。

今でもかつてと同じように、女性たちを中心とした神行事が催行されています。

さて、「節」は一年のうちにいくつもあるのですが、

特に重要なものとして次の五つの節が考えられています。

人日(じんじつ)、上巳(じょうし・じょうみ)、端午(たんご)、七夕(たなばた・しっせき)、重陽(ちょうよう)の五つです。

これらの儀式と篆書が深い関係があり、

家元である塩小路家の先祖「土師」氏一族が、祭り、祈り、占いに用いる篆書や篆刻の具体的な用例や用法が伝授されていて、各種の行事や儀式にこの方法が用いられてきたということです。

平安時代の初期にこれらを体系化し、整理したのが塩小路家の先祖である菅原清公卿、

菅原是善卿(この方が菅原道眞公の父君)、

菅原道眞卿の三代の時だったそうです。

この菅原清公卿は遣唐使の最高責任者として唐に渡り、唐の朝廷に伝わる伝統行事、儀式、法制などの収集を行い日本に持ち帰っています。

(この一団の中には、天台宗の最澄や真言宗の空海も含まれていたとのこと。)

これら中国の儀式は、仏教的なもの、道教的なもの、古来からの自然崇拝、星占い、易占いその他が渾然一体となったとても複雑なものであったようですが、

これらを日本へ持ち帰り、日本の古来からの儀式と融合させて、独自のものとして完成させたものが、「節」の儀式と「篆書」の基本となるものだったとのことです。

このように、「文字」には長い長い歴史が支えているということです。