新しい「視座」

真実の姿を認識する

本当のでなく完全な「五つ星のしあわせ」を手に入れること。

それは見失われていた「真実のじぶん=じぶんの真実の姿(霊性・聖性)」

つまりじぶんの片方の半分を取り戻し、全体性を生み出すとです。

きっとこれを聞いた皆さんにとっては、

「一体何のこっちゃ!」ですよね。

真実も何も、この身体がわたしなんじゃないの?

それとも、心とか魂とか、それがわたし?・・・と、

ますます混迷が極まります。

でも、混迷は極まっていいんです、

だって「陰極まれば陽をなし、陽極まれば陰をなす」のですから!

混迷大歓迎!!

さて、話は一挙に飛んでしまうのですが・・・、

一気に話を進めます。

この世は「デュアル」で成立している

このHPのトップ画面では「意識」を変えれば世界が変わる」

そして、今必要なのは見方の転換だとお伝えしました。

ちょっとびっくりするコトなのですが、実はわたし達が見ている事象世界は、

デュアル(Dual/duality 双対性)システムで成立しているそうなんです。

単純にモノとしてそれがあるわけではないというのです。

身体を見てもわかるように、両手足をはじめとして臓器のほとんどは二つありますし、

美しいDNAのラセン構造

写真で見てもわかるように、

DNAやしめ縄なども同じように二つの紐を絡ませて、

象徴的に語らせています。

 
DNAのような出雲大社のしめ縄

その他、「雄しべと雌しべ」や

「昼と夜」

「午前と午後」

「身体と精神(魂・霊性)」

「太陽と月」・・・など、

相対する二つのものがセットになっていることも皆さん既にご存知のように、

わたし達を取り巻く世界はデュアルで成立している事、

つまり、この世が双対(そうつい・ツイン)で成立していること(しかもその奥にはもう一つのツインが存在している。だからこその双対性)を、

しっかりと認識する必要がありそうです。(相当複雑な話なので詳細は割愛しますが、、、)

特にそのことを、象徴的に、かつシンプルに示しているものの一つが、ご存知の「太極図」です。

二つでひとつ・・・、しかも・・・

皆様もきっと一度くらいは下の図をご覧になったことがあるのではないでしょうか?

それは下の図のように両極が一対(いっつい)となっていて、さらにそれぞれの中にも両極が存在して全体を示しています。

それはつまり、「陰」と「陽」で全体を示し、なおかつそれのみで存在しているのではなく、それぞれのうちにも異なる相手であるそれぞれを内包しているとうことです。

それではこの図は、一体何を言おうとしているのでしょう。

上の図から解ることは、「陰」があるためには「陽」の存在が相互に必要であることはもちろんですが、

この両方で一つの世界が形成されている、しかも異質の存在をも含みながらです。

そのことから、「全体性」は陰陽双対であって成立することを捉えていることが分かります。

要するに・・・

じぶん自身の本質を認識し、全体性を取り戻すのに必要な大切な存在とは、、、

実は「他者」(わたしでないもの)となります。

しかも、肝心なことなのに気づきにくいことではありますが、

それぞれの中に、あの図で陰の中には陽が、陽の中には陰が記されているように、

「わたしで無いもの」の中にも「わたし」がいて、

「わたし」の中にも、「わたしで無いもの」がいる。

そんな「双対性」がこの全体性を構成する時には必要であることはもちろんのこと、

それぞれの中にもそれぞれ反対のもの存在している。

それによって全体が成立していて、

しかも、二つの事象が対立しているのではなく、

それぞれの中にも相手の存在を含みつつ、なおかつ二つがからみあい、それによって全体として成りたっていることを示しています。

西田哲学(西田幾多郎)『絶対矛盾的自己同一』において、このことを述べられているそうです)

なかなか一言では言い現せそうにはありませんが、

あえて言うなら、

一見、対立して相容れないものが、見方を変えると実は同じであるということを言っているようです。 

こんな例もありますよ。

円の中心円周上の点は同じ、つまりいつでもそれぞれになれ、入れ替えることが可能(円心という捉え方です)ということです。

モノはデュアルに存在しているという基本的なものの見方で捉えれば、一つの円がそこにあるということは、

そこにはすでに見えないカタチではあるけれども、もう一つツインで円が存在しているというものの捉え方なんです。

これは半田広宣さんという方が仰っていることなのですがとても面白い考え方(視座)ですよね。

「円の中心」を「円周」が回っていた場合、実はもう一つ反転した「円」が存在している…という風に捉えます。

下の図をご覧になればわかるように、「中心」でもあるし、「円周上の点」としても見え、それはいつでも入れ替えが可能であるということを示しています。

          

ここでは詳しくは説明しませんが、このようなものの見方を身につけると、今目の前に見えている風景の意味合いも、ググッと変わってくるかもしれません。

自分探しという迷路

わたし達は今まで「本当のじぶん」なるものがどこか夢の世界にあって、それさえ手に入れれば幸せになると信じ込み、迷い道を歩いてきているようなものです。

それにそのような旅は、荒野に羊を見つけに行くようなもので、果てしもない話です。

何か「本当のじぶん」を探し出さないといけないような強迫観念に囚われてしまいがちですが、それを一人の力でわかることはほとんど不可能です。

その羊を探し出すには、わたし達自身がその羊になって戻ってくる以外にないのだとある詩人(河村 悟氏)はいいます。

そしてそれを正しく認識するには、ひとまずその羊についての情報的な知を捨てる必要があるというのです。

これ以上書くのは哲学の知を語ることになるのでここでは割愛しますが、河村 悟氏は羊を捕まえるのでもなく、羊になることでもなく「一つの荒野となる」ことだというのです。

つまるところ、わたし達はものの意識やものの捉え方転換しなくては「新しい視座」など手には入りません。

そもそも、今までものの見方そのものが歪められてきたのですから、、、。

こうして、わたしたちは茫漠とした大海へと船出せざるをえないのです。

それが、唯一「新しい視座」を手に入れる方法なのです。

「知」は自らの探求によって初めて借り物ではない「それ」になると言えるでしょう。

(参考資料:「phonio Vol.02」2003 SUMMER ISSUE ©noos academeia magazine)

「受動的態度」から「能動的態度」へ反転!

その意味で、これまで「他者」との間に生じた、

軋轢や差異への不全感やいろいろな体験を通して感じたことや、

「本当のわたし」という言い方で示されるような「自分探し」

それは、他でもない・・・

じぶんの中のじぶん自身の片方の姿(片方の半身=180度の視野しかない中のじぶんが見ることのできない)を見失っていて、

それを探し続けてきたと言えるのではないでしょうか。

Take(受け身・受動性)のみであった今までの人生から反転して、

失われていたもう一つの側から見たじぶんの姿を見つけ出し、結果として全体性を取り戻していくこと、(ここで「他者」という存在が大きな意味を持ってきます)

そしてその立ち位置から、

感謝のうちにGive体験する人生になっていく(=能動性を発揮する)ということを意味しています。

そこに辿りついて、今度はGiveつまり自らが産み出し、与える存在になるということは、つまり、

自らが創造主となることであって、預金通帳の桁数が増えていくことよりも、

本当の、

しかも、誰かを幸せにすると同時に

じぶん自身の「五つ星のしあわせ」も手に入りそうと言えそうな気がしませんか?

 
あなたの魂にたくさんの窓を持ちなさい
宇宙の栄光のすべてが魂を輝かすことができるように、
たった一つの教義のための小さな窓では
数え切れない源から照らすまばゆい光は捉えられないのだから。

盲信というブラインドは取り外し、
真実そのもののように広大で天ほども高く
偏見を持たない窓から光が降り注ぐように。
が奏でる静寂の音楽と自然の声に耳を傾けなさい。
するとあなたの心は真実と善に向かうだろう

まるで植物が太陽にその顔を向けるように。
何千もの見えない手があなたに向かって伸び
平和を冠にいただいた彼らのいる高みへとあなたを連れて行くだろう。
そして大空はその力の全てであなたを強くしてくれるだろう。
恐れずに、中途半端な真実は棄て去り、完全な真実だけを掴み取りなさい。

                   L・W・トライン