「名前」の産まれるところ

 

「プタハの結び目」
をご存知ですか?
プタハ神

プタハ神とは、古代エジプトの建築神のことで、

ここでは宇宙の創造神のことを指しています。

では、エジプト神話で宇宙はどのように形作られてきたと言っているのでしょう。

それによると「最初にトートによる音声があった」

とされていて、その「時の神トート」の音声を、

物体である宇宙に結び付けたのがプタハ神であったとされています。

ですからその意味で言えば、

宇宙は音声から始まったということになるのかもしれません。

このプタハ神が作っているのが「結び目」だとされていますので、

それはまさに、プタハ神が建築の神と言われている所以です。

ところでこの「結び目」のことなのですが、

プタハの結び目

こちらの図像をご覧ください。

これは「プタハの結び目」と言われています。

ギリシャ文字の「Ω(オメガ)」のルーツとされており、

創造の完成を意味するものです。

これは古代エジプトの古代エジプト人たちが、

この結び目における二重性をこの世とあの世の架橋と考え、

ここにできる結び目自体を、神の世と人の世とを一つにする力の備わる場所と考えていました。

「結び目」自体はまた、人間の個体性と深い関わり合いをもっていて、

事実、古代エジプトのヒエログリフでは、紐の結び目は人の名前を表していたそうです。

結び目 in Japan

さてそれでは、国内のことに目を転じましょう。

公開されて1カ月強で興行収入130億円を超え異例の大ヒット作品となった、

新海誠監督の「君の名は。」の中でも、

「組紐」というカタチでこの「結び目」が登場してきます。

あの映画の中に登場する一葉婆さんがその由来を話しているのですが、

そのシーンでこの「組紐」が重要な役割を果たしていました。

物語の中で一葉婆さんは言います。

一葉婆さんは「結び目」で語る

『氏神様のことを産霊(ムスビ)と呼び、

人をつなげることも、

糸をつなげることも、

時間が流れることもすべてムスビで神の力であり、

組紐も神の業であり、

時間の流れそのものを表している』と。

ところで、この「ムスビ」という言葉は漢字では産霊(ムスビ)と書きますが、

それでは、

参考までに、

古来の文献を見てみましょう。

   

日本最古の歴史書「古事記」の中に最初に登場する造化三神は、

天之御中主神、高皇産霊尊、神皇産霊尊とされていますが、

最初に登場する天之御中主神は独り神と言われており、

他の二神は「産霊ムスビ」で二柱の神が双対(ツイン)となっています。

(上の図は国学者の平田篤胤『霊の真柱』岩波文庫 青46−2から引用)

こちらの図をよく見るとわかるのですが、平田篤胤も神々を「対」(「ツイン」)で捉えていたことがうかがい知れます。

例えば、「高皇神産霊神」と「神皇産霊神」、「伊邪那岐命」と「伊邪那美命」などなどがそれにあたります。

またその後代の神々もそれぞれに「対」として認識されていたことがわかります。

ケルトの結び目
ケルトの結び目

神話学的には「ムスビ」には宇宙を創造するという意味があるそうで、

民俗学者の折口信夫も、

その著書で『産霊(ムスビ)とは、霊魂を結合させること』とも述べています。

古神道風に言えば、本霊(モトミタマ)と分霊(ワケミタマ)の重なり合いの場と言えますし、

さらに、

異端のエジプト学者シュヴァレ・ド・ルービッチの言葉を借りるならば、

『人間の身体は、「神の神殿」である』ということにもなりそうです。

人間は命名する
唯一の存在

人の名は外からやってくるとお伝えしていますが、よく考えれば「人の名」と「ものの名」の違いとはなんでしょう。

二つの命名の共通点は、それが行われるときにはすでに「名付けられるもの」としての存在があるということです。

ところが、そのモノの名前が付けられるとき、つまり、そのものの名前が生まれるときには立ち会うことができません。

だってすでにこの世にあるモノの名前は既に付けられてしまっているからです。

唯一、私たちが自分で名前をつけることができるのは、自分の子どもの名前です。

しかも、この人名というものの特徴は、それが命名する人物とは原理的に一致しないということです。

つまり、人名は生まれたばかりの赤ちゃんに付けられますが、それはまだその子が未だ何者にもなっていないからです。

要するに、人名は、確かに特定のときと特定の場所での人物を指し示すのではなく、「未だ不在の何か」を指し示すというのです。(引用:ベンヤミンの『名前論』)

生まれたばかりの赤ちゃんは、確かに「太郎」と名付けられはしますが、まだ「太郎」として存在していない未知数の、可能体としてそこにいるわけなのですから、、、。

先に出てきているヴァルアター・ベンヤミンは、次のように言っています。

『人間の言葉は言語(Worten)において自らを語る。したがって、人間は固有の精神的本質を(それが可能であるかぎりで)、他の全ての事物を名付ける(benennt)ことによって伝達する」(『言語』13頁)

そして、

『絵画の言語がカンバスを、彫刻の言語が大理石を、文学の言語が紙を使うとすれば、「人間の言語」は「言葉」を使う』(『言語』14頁)としています。

人の名の「創造性」と
「無限性」

わたし達に課せられていることは、その赤ちゃんが「太郎」になるまで「待つ」ほかないということのようです。

ではいつまで待てばいいのでしょうか。その赤ちゃんが何かそのものであることに到達した時なのでしょうか。

例えば、今アメリカで活躍している大谷翔平選手が生まれた時、そのように命名したご両親は、今の活躍を予想してその名をつけたのでしょうか?

推測すれば、もしかしたら未来の大リーグ選手を夢見て命名したかもしれません。

でも、命名の瞬間に目の前の赤ちゃんはまだ野球のことも知らず、そこにエンジェルスマイルをご両親に見せていたかもしれず、

誰もその赤ちゃんの中に大リーグ選手を予想さえしていなかったに違いありません。

ただ、その赤ちゃんが成長していくにつれ、だんだんとプロ野球選手への姿へと変化していく片鱗は、見えるようになっていった可能性はあります。

今では、大谷翔平選手の名を聞けば、すぐに大リーグ、赤いユニフォーム、魅力的な笑顔やパフォーマンスを思いうかべることができますし、

高校野球のときの活躍、そしてあのスラリとしたスタイルもすぐに思い出すことができるように、

彼に対するイメージの広がりは限りなく、

子ども達の憧れのプロ野球選手として、大谷翔平選手に見いだすことができることでしょう。

ここまでのプロセスの中の大谷翔平選手は、すべて大谷翔平選手ですし、

今後の活躍次第では、今までのイメージに積み重ねられた存在へと成長を果たしていくに違いありません。

これが人間の名の「創造性」と「無限性」と言えるようです。

(「名前」については、「ヴァルター・ベンヤミンの名前論ーユダヤ的固有名詞論〔三〕:村岡晋一」を参考資料としてお伝えしました。