ほんとうの幸せって?
かの宮沢賢治は、彼の作品『銀河鉄道の夜』の中で、主人公ジョバンニにこう言わせています。
『「さあ、やっぱり僕はほんのひとりだ。もうきっと行くぞ。ほんたうの幸せをきっときっとさがしあてるぞ。」
そのときまっくらな地平線の方向から青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中は明るくなりました。そしてのろしは高くそらに向かって光りました。
「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、
私たちのお母さんのために、
カムパネルラのために、みんなのためにほんたうの幸せをさがすぞ」』
賢治にとっての「ほんたうの幸福」とは、どうやら一人だけ(個人)のものではなかったようです。
他の作品の中でも賢治は、
『世界中が幸せにならなければ個人の幸せはない』とまで言っています。
ところで、
わたし達は賢治の、、、とまではいかないにしても、
どのような「ほんたうの幸せ」を求めているのでしょう。
そして、
そもそも何を幸せとしているのでしょうか?
名誉を得る、
財を成す、
子供に恵まれる、
有名企業に就職する、、、
さらに言えば社会的に高く評価されること?
きっと、そうしたことも恐らく「しあわせ」の一つの実現であると言えるでしょう。
それでも、、、
財を為しても、名誉を得ても、それを「しあわせだ」と感じられるかどうかは別物のようだと薄々感じられる方も多いのではないですしょうか?
わたしは、そういったことを超えたところ、
つまり、
賢治が言っていることの「ほんたうの幸せ」というのは、
隠されてしまっている真実の「わたし」(精神的個=霊性)を発見すること。
そして、そこを起点として、
自らを創造的な存在として、
この地球のために、
そして霊的な進化をしてこの世界そのものの進化に貢献することではないかと考えています。
生きること、そのこと自体がすでに創造を孕んでいることなのです。
そう、
それは、、、
このHPのトップページであなたに質問したものです。
『あなた自身を地球上の魂と考えて、あなたの使命とどのような方法で、
ひとりの人間が世界をより佳くできると思いますか?』
というこの質問に、やっと答えられそうな準備ができてきました。
真実のわたし
さぁここで、アフリカのドゴン族に登場していただこうと思います。
『ドゴン族は、社会的には父系血統からなる集団を形成しています。
また、仮面結社や年齢集団といった政治的組織が確立されており、ホゴンと称する首長により村の運営が行われていて、
特に仮面結社に代表されるような仮面文化に発達がみられ、これを用いた舞踊や祭事に文化的特徴を有する。』(Wikipedia)そうなのです。
また、天文学に関する知識を多く持つドゴン族は、それに由来する神話を数多く持つ民俗として有名です。
『フランスのジェルメーヌ・ディテルランなどの研究者により、調査の詳細が紹介されている。この学術論文は1950年にアフリカ学協会誌に『スーダン原住民の伝承によるシリウス星系』という名で発表がなされている。(Wikipedia)』
ドゴン族の神話によれば、彼らはシリウスの楕円マイルを知っていることがわかります。(『狐』マルセル・グリオール青い&ジュルメーヌ・ディテルラン/せりか書房)
ドゴン族になぜそうした知識があったのかは謎なのだそうなのですが、
近代科学が観測したシリウスの歩みとほとんど差のない形を知っているのが不思議です。
そのドゴン族が教えてくれる元来の人の姿、それが、この双対の姿をしたこの像なのだそうです。
背中合わせの様子をご覧ください。なんとも不思議な佇まいですよね。
じぶんの姿は
じぶんでは見られない
実際のところ、わたしもリタイアーして初めて「ああ、わたしは社会の中で役割を生きてきたにすぎないのかもしれない」と深く感じたのでした。
役割をもたない、肩書きのない、何者でもないわたしって、、、じぶんでも呆れるほどに深く考えていた時期もありました。
精神的な個(もう一人のじぶん)である「じぶん」は
一体どこへ隠されてしまっていて、どんな状態で在るのか・・・?
では、本当のわたし達はどこにいるのでしょう。
そもそも、「じぶん」というものは一体何をさしているのでしょう。
さぁ、まず、気を取り直して、、、
ドゴン族の双対の在り方からイメージしてみてください。
後ろ側についているのが紛れもなく、もうひとりのじぶんのように思われませんか?
よくよく考えてみれば、、、
わたし達は、じぶんの姿を自分で見ることは決してできません。
もちろん鏡で見ることはできますが、それは左右反対の姿であって、
そのまま、ありのままのじぶんの姿ではありません。
では、ありのままにそのままに見ることができるのは誰なのでしょう?
そうなんです、
じぶんの姿を真正面から直に見ることができるのは、
まぎれもなく目の前にいる他者。
それは、、、
そう、
まぎれもなく「他者」です。
じぶんが見ている鏡の中のじぶんは、
あくまでも「鏡像」だということ。
精神分析学では、生後六~一八か月の幼児が、鏡に映った自分の像を、世界に属している自分の像として認める段階のことを「鏡像段階」というのですが、
人間が人間になる重要な成長期で、これを契機として自我が発生するとされているとのこと。
これはフランスの精神分析学者、ジャック-ラカンが初めて定式化しています。(wikipedia)
このように、
わたし達は、じぶんの目でじぶんを見ることは決してできないのです。
その証拠に、見ている画面上にはじぶんの目はないのですし、
それに、、、
自分の背面を自分の目で見ることなど決してできません。
それなら、、、と、
勢い、じぶん自分を回転させて背面を見ようとしたところで、
前に背面であった面は、一瞬にして既に背面ではなく、
前面でしかありません!!
しかも、面白いことにそれは常に、、、なのです。
では、そんなわたしを直に見ているのは誰でしょうか?
そう、何度も繰り返しますが、
「他者」です。
わたし達を直接、直に見ているのは、目の前にいる「他者」だけなんです。
前出のドゴンの人型を思い出してください。 じぶんの裏面にくっついている
のは、それこそわたし達の背面をみている、そう「他者」なんですね。
もっとも、
「人間は元々頭が2つ、手が2対(4本)、足が2対(4本)と、背中合わせでくっついていた。その人間(と言えるかどうかは別にして)が思った以上に力を付けてしまったので、今後を危惧してある神がハンマーで潰してしまえと提案した。
と言う内容です。
また他の記述では、
『はじめ神様は双対の姿で人間をお創りになったのですが、あるとき、背中から二つに切り分けることにして、
それらをアダムとエヴァという二人の人間とした』ということも言われていいますから、
それはあながち特殊な捉え方ではなく、普遍性のあるお話ともいえそうですよね。
社会的個と
精神的個
ところで、
わたし達は近代科学主義の洗礼を受け、学校教育で科学を学ぶ経験を経て成人していきます。
すべて、受け取るだけの世界です。
そうした受動的なあり方(創造の結果のみ=受け取ること)が先行しているうちに、
知らない間に、物質のみを重要視して精神を奥に押し込んで、
現実の役割だけ、
そして肉体だけが自分自身だと思いこんで成長してきています。これは、普通のわたし達の感覚だと当然と言えば、当然なのですが、、、。
何より、、、そういった社会的個は、社会での役割として見つけやすく、
また手応えはあるとは思うのです。
でも、社会的な役割からリタイアーしたときにも、同じように手応えを感じることはできるのでしょうか?
それに、、、
ちょっと飛躍しますけれど、こんなことも言えませんか?
社会での役割がなくなったら、あなたは一体どこで「じぶん」が「じぶん」であることを確認するのでしょうか?
ねっ、社会的個は精神的個(真実のあなた自身)とは違う感じがしませんか?
ドゴン族の仮面ではありませんが、わたし達は社会生活の中で、仮面をつけて適応しながら生きてきました。
仮面は英語で性格を表す言葉は「パーソナリティ(personality)」と言います。 これはギリシャの仮面劇で使われるペルソナ(persona:仮面)というラテン語の言葉からきています。 つまり、性格や人格の言葉の由来は「仮面」なのです。
だとしたら、その仮面を剥いだときその下に沈み込められていた真実のじぶんの姿は、いったいどのようなものなのでしょう?
だからこそ、
じぶんが名前を持つというコト、それにしっかりと目を向けて欲しいのです。
だってその「名前」にこそ、、、
あなたがあなたであることの証である霊性が託されているのですから。
この世界からじぶんに託されたことに気づき、この世界への応答を続けていくことの延長線上に、
あなた自身の「本当のし・あ・わ・せ」をきっと見出すことになるでしょう。