名前は
この世で最初の
プレゼント
誰もがこの世に生まれて、最初にもらう、一番大きなプレゼント
それ一つを取ってもわかるように、
わたし達の住む世界は・・・
与えられることによって始まっていると言えます。
人間は、このようにして「与えられた」世界で様々なことを感じながら生きていますので、
その意味で、人間が生きるということは受動的な世界から始まるということとが言えましょう。
そんな名前のことですが、、、
じぶんの名が
好きになれなかった
わたし
実のところ、わたしは自分の名前が大嫌いでした。
ただ・・・、
一生付いて回るのが、この「名前」です。
ですからなんとか好きになりたかったのです。
そんなことからわたしは、
自分の名前の探求の旅に出ざるをえませんでした。
と言っても、、、
どこかへ旅行に行くとか、そんなことではありません。
そもそも、なぜ自分の名前が嫌いだったのかといいますと、
まず、全部ひらがなでしたから古色蒼然としていましたし、
第一、その名前のことで小さい頃はからかわれたり、皮肉られていたり、それに先生も、はたまた親からも「しづえ」の表記を「づ」ではなく「ず」と間違われていたことも多かったからです。(笑)
(笑い話なのですが、実は今でもよく間違えられます。最高の間違われ方は、「みずのしづえ」と自己紹介しても「しみずみづえ」となってしまうことがとっても多いんです。(因みに銀行関係で多いのは、水野→清水、あるいは→永野)
それに、その名前の音からイメージされる大人しげな静かな女の子ではなく、実際はむしろその逆で、屈託なく振る舞い快活なタイプでした。(通知表に「天衣無縫」と記されていたことも覚えています)
わたし以外の人が、名前の「音」から描いた勝手なイメージとわたし自身が抱く自己イメージとのギャップに、大いに戸惑っていたというのがほんとうのところでしょうか?
それに加え、なんと、わたしの名前は両親が自分たちでつけたのではなく、
わたしの「産土神社」から頂いてきたものです。(昔はそのようなことが多かったとしても)
なので、
名付けを神社に依頼したということからくる親への不信感を払拭することや、
どんな意味が込められているのかを、 自分なりに納得するしか方法がありません。
ある時、この産土神社であるこの高城神社の宮司さんにお会いして、名前の由来を確かめようとしたこともありました。
また現職の宮司さんも「名前の由来までは、、、」と、お答えいただくことはできませんでした。
偶然が連れてきた
転機
ある時のことでした。
でも、
瞬間的に
「ピンポーン!」と脳みそが素早く反応したことを今でも覚えています。
「これだ〜!」と。
わたしは、瞬時に自分の名前の持つ意味が「ストン!」と腑に落ちて、
この瞬間から、
「そうよ!これを自分の人生で取り組めばいいんだわ!」ってね。
そう素直に思えた、わたしの能動性の発動のその時そのものでした。
本来のあり方を認識する
✖️
行動する
=じぶんらしく動ける(能動的になる)
それに、思い起こせばこの名前は産土神社からいただいた名前でした。
名前(氏名)→ 天与(わたしの場合産土神社から頂いた)
= 天命
=つまり「使命」(Calling)
なのではないか!
まさに、じぶんの名が好きになった瞬間でした。
「杖を巡る旅に出る」
たどり着いた先
自分自身の「核」に触れるこうしたプロセスは、
「わたしがわたしになる」
『奈良時代以降、刑死人の供養(くよう)のために営まれた神事 「死杖(しづえ)祭」ともいう。
京都・猪熊(いのくま)三条南にあった褐速(かちはや)神社において、
刑部(ぎょうぶ)省で死罪となった刑死人の冥福(めいふく)を祈るために、毎年8月に行われ、踊念仏などさまざまな鎮魂の儀が催された。
京都・千本の引接(いんじょう)寺や壬生(みぶ)の地蔵寺の念仏会(ねんぶつえ)は、
この祭りを受け継いでいるといわれている。[佐々木勝氏の記述を引用]』
この写真は、『壬生狂言』と言われる御奉納の演舞です。
願い事を書いた「焙烙(ほうろく)」が高々と積み上げられているのを、次々とはらいおとし、
それが粉々に割り散らされることで厄払い(「厄除けほうらく」)をします。
ところで、実際の刑場はもう少し南の地だったようですが、それは特定はされておらず多様な仮説による推測の域を出ていないようです。
ただ、妙なご縁なのですが、
わたしがかつて53歳の時に遊学のために京都へと移動した際、
一時的に借りたマンションが、
まさにこの猪熊三条上ルという場所なのでした。
なんと!上記の「活速神社」がかつてあったと推測されているところの直ぐ近くだったのです。(なんという偶然の引合せ!)
これが「与えられた名前」からその「意味」を発見し(「受動性」*Take)
わたしの片方の真実「主体(見失っていた霊性としての)」を、じぶんの「名」の中に発見したという訳なのです。
自ら行動する(能動性を発揮する)ことを意識し、
とはいえ・・・
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お話のついでに、、、
ある作家が、次のように「命」のことをお話しされています
「自分の命は、自分の持ち物ではない」
つまり天からの借り物なのだ・・・と。
借り物ですから、その借り賃をお払いしなければなりませんが、
しかも天は、お金では受け取ってはくれないというのです。
では、、、 何であれば受け取ってくるのでしょうか?
それは、その人が自分の体を使って何かをすること、
つまり、行動でしか支払う(働きかけ、能動的)ことができないのだというのです。
だとすれば、 どんなことが行動となるのでしょう?
実はそれは、
誰かを幸せにすることなのだそうです。
それにしても、「誰か」とは一体誰のことを指すのだろうかと不安にもなりますよね。
でも、ご安心ください。
どうやら全ての人をでもなさそうです。
一番身近な好きな人でもいいし、
それがたったひとりだったとしても、幸せにすることができれば それでいいのだそうです。(著作家中谷彰宏さんの講演から)
どうやら、そうした能動的になるためのヒントは、あなたの「名」に隠されていることに気づくことから始まるようなのです。