本当の幸せって?
かの宮沢賢治は、彼の作品『銀河鉄道の夜』の中でこんな風に主人公ジョバンニにこう言わせています。
「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」
そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。
そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。
「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、
僕のお母さんのために、
カムパネルラのために、
みんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」
賢治にとっての「ほんたうの幸福」とは、どうも一人だけ(個人)のものではなかったようです。
第一、他の作品の中で賢治は
『世界中が幸せにならなければ個人の幸せはない』とまで言っています。
ジョバンニは、わたし達がこの物語を読み続けている間は、それを探すためのを深遠な旅を続けていくことでしょう。
ところで、
わたし達は賢治のとまでいかないにしても、どんな幸せを求めてさまよっているのでしょう。
そして、
何を幸せとしているのでしょうか?
名誉を得る、
財を成す、
子供に恵まれる、
有名企業に就職する、、、
さらに言えば社会的に高く評価されることなどなど。
もちろん、そうしたことも「しあわせ」の一つのカタチであると言えましょう。
でも、どんなに財をなしても名誉を得たとしても、それを「しあわせ」と感じられるかどうかとは、どうやら別物のようだとうっすらと感じておられる方も多いのではないでしょうか?
わたしは、そうしたことを超えたところ、
つまり、
賢治が言っていることの「ほんたうの幸せ」というのは、
本当は双対であるにもかかわらず、
見えなくなっている真実の「わたし」(精神的個=霊性)と再び出会うこと。
そして、そこを起点にして創造的な存在として、この地球のためにそして霊的な進化をして貢献することではないかと考えています。
このHPのトップページで問うたこと。
そうです
『あなた自身を地球上の魂と考えて、
あなたの使命とどのような方法で、
ひとりの人間が世界をより佳くできると思いますか?』
この問いに応える準備がやっとできてきました。
言ってみれば、
生まれてきたことの(つまり人生の)「ものがたり」を自分の手で紡ぎ出すための最初の一歩を踏み出すこと、
それはとりもなおさず
双対の見えなくされている
もう片方の「じぶん」の発見でもあります。
真実のわたし
アフリカのドゴン族の神話には、「双対の人」が登場しています。
ところで、
ドゴン族の神話によれば、
彼らはシリウスの楕円軌道を知っていることがわかります。
(『青い狐』マルセル・グリオール&ジュルメーヌ・ディテルラン/せりか書房)
なぜそうした知識があったのかは謎なのだそうですが、
近代科学が観測したシリウスの軌道とほとんど差のない形を知っているというのも不思議です。
そのドゴン族が教えてくれる元来の人の姿、
それが、この双対のカタチをしたこの像です。
背中合わせの様子を見てください。
わたし達は近代科学主義の洗礼を受け、学校で科学を学ぶ経験を経て成人していきます。
思考が先行しているうちに、
気づかぬ間に、
物質のみを重要視し精神を深みに押し込めて、現実の役割だけ、
そして肉体だけが自分自身だと思い始めます。
何より、そうした社会的個は、社会での役割として見つけやすく、
また手応えはあるとは思いますけれど、
精神的個(もう一人のじぶん)である「じぶん」とはいったいどんな状態を指し示しているのか・・・?
ドゴン族の双対のカタチから想像してみてください。後ろ側についているのが紛れもなく、もうひとりのじぶんのように思えてきませんか?
社会での役割がなくなったら、あなたは一体何をもって「じぶん」が「じぶん」であることを確認するのでしょうか?
なのでまず、
じぶんが名前を持つというコト、そのコトにしっかりと目を向けて欲しいのです。
だって、その「名前」にこそ、あなたがあなたであることの証である
霊性が込められているのですから。
この世界からじぶんに託されたことに気づき、この世界への応答を続けていくことの延長線上に、
あなた自身の「本当のし・あ・わ・せ」を見出すことでしょう。
「はじめに
言葉があった」
ところで、、、
繰り返しになりますが、
かつていにしえの哲人たちは、この世界は「声」よって生じたとしてきました。
そして、

『古代エジプト人たちは、この結び目における二重性をこの世とあの世の架橋と考え、
ここにできる結び目自体を神の世と人の世とを一つにする力の備わる場所と考えていたそうですよ。
結び目自体はまた、人間の個体性と深い関わり合いを持っていると言われています。
事実、古代エジプトのヒエログリフでは、
紐の結び目は人の名前を表した。』と言いますし、
『異端のエジプト学者シュヴァレ・ド・ルービッチの言葉を借りるならば、
人間の身体とは「神の神殿」であるということにもなるのでしょう。

古代エジプトの神話によれば、
プタハが宇宙の創造を終えたあと、音声の神としてトートが再帰します。
プタハとトート。
これら二つの神は創造の終わりと、その創造のあとを引き受ける者の関係を表すと考えて良いらしくて、
それはつまり、人間の身体と言葉のこということで、トートは人間を名付けたあと、今度は人間に主体の座を明け渡すのです。

こうして、プタハもトートも共に隠れ神となります。(まるで古事記の最初に現れそして隠れ神となった造化三神のようですね)
主体とは名付ける者の異名でもあることから、今度は人間がトートの代理として主体を装い、世界を言葉の力によって治めることになるというわけです。
しかし、この名付けはすべてプタハの遺産あってのものであるので、
その意味でいうならば、世界への名付けの音声とは創造の反響音のようなものであるとされています。
形象の類似性から見て、プタハの結び目はギリシア文字の「Ω(オメガ)」のルーツとも言えるのだそうです。
ですから、それは創造の完成の象徴ともなる』とも言われているのです。
わたし達はその「反響音」のカタチをまず探しに出かけましょう。
招福の探求の先に、必ずやあなたの真実の世界を生きる(本当のじぶん、つまり霊性)を発見することでしょう!!
手がかりは、
あくまでも「名前」です。