文字のカタチ=文字の持つ力
普段は何気なく書いている文字なのですが、実は古来より「文字には力がある」とされてきています。
わたし達は通常声でのやり取りをして普段の暮らしを過ごしていますので、「音」で会話が成立しています。
遠い遥か昔に中国から漢字なるものが輸入され、その頃使われていた音声(やまとことば)にこの漢字を割り当てて文書にしていました。もちろん、お経なども遣唐使が持ち帰っていますからすでに漢字で編纂されたものとなっていました。
輸入された漢字を当てて、古事記や日本書紀なども編纂されていると言われますから相当古い話になります。
また、かな文字にしても、古くに言われていることは、ひとつひとつのかな文字はご神名であるとも言われていますから、そうした文字には(あるいは「音」)には力を感じていたことでしょう。
家元との出会で知った文字の持つ力
長い間、福祉の分野で相談支援をしてきたわたしでしたが、父親の急逝をきっかけにし53歳で早期退職、その後京都へと移動しました。
その際に、実家の菩提寺である熊谷市・東竹院 の方丈様からのおつなぎによって、
京都在住のある家元との出会いがもたらされたのでした。
その方がこれからご紹介する塩小路篆刻・篆書道家元である塩小路光孚先生でした。
こうして、ご先祖のお導きで大切なご縁をいただき、
わたしの名前の、象徴としての「杖」を、この世において具体的にどう遣ったら良いのかを考えることの突破口(結果としてそうなったのですが)になったというわけなのでした。
「篆書」はある一族の家業(祖業)
家業というと「家」の「業」と書かれるので、今の職業観と混同してしまいがちですが、(もちろんそうした側面を持っているとはしても)
家業の持つ意味の中心は、家業がその家(一族)の理想の根幹であって、存在や存続の基礎となっているということなのだそうです。
ところで上記でご案内した通り、
わたしは実家の菩提寺のご縁から、京都在住の折に「祈りの文字」を家業として伝えてこられた篆書・篆刻道の家元と出会いました。
お家元の家業として伝えられているのが、塩小路篆刻・篆書道の「篆書・篆刻」です。
菅原道眞の書法は、『菅原伝授手習鑑(かがみ)』としても有名です。
文字が上手な、つまり三跡として知られている歌人たちも、菅家の筆法伝授を受けていたとか。
塩小路家の筆法は歴史を重ねるごとに完成度が高まり、秘伝とともに家の宝・財産となっていったそうです。
菅原道眞公の末裔である菅家七家の一つである塩小路の先祖である菅原清公卿は、
遣唐使として空海、最澄らと共に唐に渡り(初代はそのリーダーだったそうです)、
その後、宮中に入って朝廷の儀式の整備とこれに伴う調度、装束などの整備をされています。
その後、唐から持ち帰った「漢字」を、三代かけて整理し、
どのように用いるのかを整備したのが塩小路家なのでした。
また、菅原家は陶芸、神聖文字、占術法、土木工事などを家業としており、奈良東大寺の設計や施工、平城京や平安京の設計・施工も行っているとのこと。
その家業を営む時に必要なのが、占術やお祓いであり、
その具体的な呪具として塩小路家に伝わる篆書があるといいます。
そのため、
「文字(篆書)」はそれを駆使して、土地を鎮めたり、一家の繁栄を願ったり、氣を取り込んだり、節会の行事、あるいは国の安寧を祈る方法とされています。
塩小路家は朝廷の諸行事における儀礼、都市づくりにおける事前の儀礼などについても、この「文字」を通じて携わったお家柄なのでした。
みんなが知ってる天神様って・・・
この塩小路家は菅家七家のうちのおひとつで、初代から数えて6代目である菅原道眞公は天神様として全国に1万社以上もの人社に祀られています。
塩小路光孚先生は、その道眞公から数えて38代目の末裔です。
さて、子ども達が進学の受験の時にお参りすることが多い「天神様」ですが、
その大元の神社が京都にある「北野天満宮」で、まさに菅原道眞公がご祭神です。
ところで、
菅公は天皇の忠実な臣下であったにもかかわらず最後には失脚させられていることは知られています。
九州の太宰府という遠隔の地に左遷させられ、ここで亡くなるという生涯を送っていますが、ところがその後、京の都に様々な災いが立て続けに生じます。
特に菅公は「雷」を自在に操っていたとされていたことから、これらの天災や天変地異は、左遷された菅公の祟りではないかとのことから、
その怨霊を慰める(怨霊信仰)ために神としてお祀りしたのが「北野天満宮」です。
そのことは、
この「北野天満宮縁起絵巻」に残されています。
そのように恐れられていたのに、なぜこの道眞公が「学問の神様」と言われるようになったのかと言いますと、
菅公が幼少時より学問に優れており、そうした逸話の多いこと、文人としては破格の高い位に上がり非常に優れた政治家であったことにも由来するようです。
さて、塩小路家のことに戻ります。
この一族の始祖は、「天穂日命(アメノホヒノミコト)」だそうで、日本最古の歴史書である古事記によれば、
天穂日命は天照大御神の次男として誕生しています。
長男は皇室の先祖である「天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)」ですが、
天穂日命が次男として生まれていることから推測すると、天皇家を助けお守りするという宿命を生まれながらにして持っていたことが示されていると考えられるそうです。
「篆書は古の文化のかたまり」
宮中において、あるいは公家たちが諸々を天地の神々に祈願する際に、
この塩小路家の「篆書」が用いられてきていたとのことは前項でお伝えしました。
また、何代にもわたって継承してきた宗家に伝えられてきた「篆書・篆刻」は、
古(いにしえ)から呪術として機能していた「祈りの道具」なのでした。
篆書はもともと祈りの文字と呼ばれ、
この文字を仲立ちとして、神と我々人間との対話が行われる神秘的な文字であるとされてきています。
ですから、いくら「カタチ」がうまくできた様に見えても、この用途に十二分に耐えうる様な文字でなければ、この篆書は魂のない抜け殻の篆書なのだと言えます。
このように篆書(及び篆刻)には、特別な「氣」が込められており、次々と氣がそこに吸収され、それがまた外に向かって照射されていると伺っています。
優れた書はこの「氣」と「カタチ」からなっていると古来から言われてきていますので、篆書(篆刻)は正確にしっかりと、かつ上品に書かれなければならないとされています。(わたしもお家元から、穏やかで丸みを帯びたカタチを意識するように言われておりました)
細かな説明は省きますが、見えない力であるこの自然界のエネルギーを手に入れようとした先人たちの想いが、
このように「文字のカタチ」となって昇華されてきた公家文化が、今でもこのように一部継承されてきているということを、ぜひ知っていただきたいと思います。
ちなみに2005年に開催された「愛・地球博」の際に、
会場内に掲示された「愛」の文字は、家元の手によるものでした。
実は、万博開催当初は入場者の見込み数が伸びなかったことから、
家元が「愛」の文字を揮毫することでその改善を図ろうという運びとなり、
「愛・地球博」にちなんだ「愛」の文字を家元が揮毫されたとのことでした。
その後入場者数が増加したとの逸話も残っているそうです。(これらのお話はすべてお家元から直にお聞きしています)
こうして、家元からのお導きによって「文字」の持つ力を知り、その文化的な意味や、それを継承している存在が現在でもあることを知ることとなりました。
そして同時に、わたしがある意味での呪術的な世界へと接近していくきっかけになったという訳なのです。