新しい「視座」を手に入れよう

精神の表れとしてのモノ

HPのトップ画面では「意識を変えれば世界が変わる」

そして、

今必要なのは見方の転換だとお伝えしました。

ちょっとびっくりするコトなのですが、実はわたし達が見ている事象世界は、

単純に物質としてモノがあるわけではなく、それは精神の現れだというのです。

でもわたし達の見え方は、物質にのみ見えていてそこに「精神」があることさえ気づいていないということなんです。

ここが、この先の「名(前)」につながっていくことになるのですが、

ヴァルター・ベンヤミンという哲学者は、

『言語はそれに対応する精神的本質(Das geistinge Wesen)を伝達する』と言っています。

そして、

『それゆえ、言語は何を伝達するのかという問いに対する答えはこうなる。どの言語も自己自身を伝達する。・・・あるいは、より正確に言えば、どの言語も自分自身において自己を伝達する』(『言語』12〜14頁)

としており、

何より、「名(前)」こそ言葉の本質であるとさえ言うのです。

本来の姿を認識する

もし全てが精神の表れというなら、

真実の世界(本来あるべき姿つまり「五つ星のしあわせ」)を手に入れることは、

「真実のじぶん=じぶんの本来の姿(精神・霊性)」にたどり着くために、

その精神の所在を見つけ出す必要があるということになりそうです。

それは、

物質主義に陥り身体のみをじぶんと思い込んで、その奥に隠れてしまって見失っていたじぶんの片方の半分(精神・霊性)を取り戻し、

その双方を再びつなぎ合わせて全体性を生み出すとです。

それはつまり、

あのドゴン族の「ノンモ」のような姿を取り戻すのです。

きっとこれを聞いた皆さんにとっては、

「一体何のこっちゃ!」ですよね。

「真実も何も、この身体がわたしなんじゃないの?」

それとも、

「心とか魂とか、それがわたし?」・・・と、ますます混迷が極まります。

でも、混迷は極まっていいんです、

だって「陰極まれば陽をなし、陽極まれば陰をなす」のですから!

混迷大歓迎!!

さて、

話を一気に進めます。

あなたは「洞窟の比喩」というのをご存知ですか?

ちょっとこの映像をご覧になってみてください。

これは、かつてのギリシャ時代に「プラトン」という哲学者が『国家』という本の中で言っていることなのですが、

これを少し引用してみましょう。

『国家』第7巻(引用:wikipedia)

『(514A-515A) ……地下の洞窟に住んでいる人々を想像してみよう。明かりに向かって洞窟の幅いっぱいの通路が入口まで達している。人々は、子どもの頃から手足も首も縛られていて動くことができず、ずっと洞窟の奥を見ながら、振り返ることもできない。入口のはるか上方に火が燃えていて、人々をうしろから照らしている。火と人々のあいだに道があり、道に沿って低い壁が作られている。……壁に沿って、いろんな種類の道具、木や石などで作られた人間や動物の像が、壁の上に差し上げられながら運ばれていく。運んでいく人々のなかには、声を出すものもいれば、黙っているものもいる。……』

つまり、わたし達は実像を知らないままにこの世に奴隷のように繋がれたまま生きているにすぎないから、そこから抜け出して太陽の光輝く真実の世界(これをプラトンはイデアの世界としています)に出て行こうとするものです。

自分探しという迷路

わたし達は今まで「本当のじぶん」なるものがどこか夢の世界にあって、それさえ手に入れられれば幸せになると信じ込みんでいました。

あるいは、モノやお金を手に入れられれば、それが幸せであると思い込ませされていて、まるで迷い道を歩いてきているようなものです。

まさに、「洞窟の比喩」で見せられていた幻想を見続けているようなものでした。

それにそのような旅は、荒野に羊を見つけに行くようなもので、果てしもない話です。

何か「本当のじぶん」を探し出さないと幸せではないような強迫観念に囚われてしまいがちですが、それを一人の力でわかることはほとんど不可能です。

その羊を探し出すには、わたし達自身がその羊になって戻ってくる以外にないのだと詩人河村 悟氏はいいます。

そしてそれを正しく認識するには、

ひとまずその羊についての情報的な知を捨てる必要があるというのです。

これ以上書くのは哲学の知を語ることになるので割愛しますが、

河村悟氏は羊を捕まえるのでもなく、

羊になることでもなく「一つの荒野となる」ことだというのです。

少し抽象的な表現となりましたが、つまるところ、

わたし達は意識やものの捉え方(認識)転換しなくては、「新しい視座」など手には入りません。

だってそもそも、今までものの見方そのものが(あの洞窟で見せられてきた姿を本当だと思わされてきたように)歪められてきたのですから、、、。

こうして、わたしたちは茫漠とした大海へと船出せざるをえないのです。

「知」は自らの探求によって初めて、借り物ではない「それ」になると言えるでしょう。

何より、自分自身の半身を取り戻すための船出なのですから、もう漕ぎ出すしかないのです!

それが、唯一「新しい視座」を手に入れる方法です。

(参考資料:「phonio Vol.02」2003 SUMMER ISSUE ©noos academeia magazine)

「受動的態度」から「能動的態度」へ反転!

その意味で、これまで「他者」との間に生じた、軋轢や差異への不全感やいろいろな体験を通して感じたことや、

「本当のわたし」という言い方で示されるような「自分探し」

それは、他でもない・・・

もともと、、、はじめっから、

わたし自身は「ここ」にいたじゃない、、、って、チルチルやミチルの「青い鳥を探す」体験と同じようなことです。(もともとここにあったということに気づいたことに、気づいた!)

足元の発見に辿りついて、

今度は、

自らが産み出し、与える存在になる(能動的)ということ。

失われていた片方の自分(霊性)を取り戻してから次にすることは、、、

それはつまり、自らが創造主となることです。

そして、

誰かを幸せにすると同時に、じぶん自身の「五つ星のしあわせ」も手に入れられる世界を掴み取ると言うことになるわけです。

あなたの魂にたくさんの窓を持ちなさい
宇宙の栄光のすべてが魂を輝かすことができるように、
たった一つの教義のための小さな窓では
数え切れない源から照らすまばゆい光は捉えられないのだから。

盲信というブラインドは取り外し、
真実そのもののように広大で天ほども高く
偏見を持たない窓から光が降り注ぐように。
それが奏でる静寂の音楽と自然の声に耳を傾けなさい。
するとあなたの心は真実と善に向かうだろう

まるで植物が太陽にその顔を向けるように。
何千もの見えない手があなたに向かって伸び
平和を冠にいただいた彼らのいる高みへとあなたを連れて行くだろう。
そして大空はその力の全てであなたを強くしてくれるだろう。
恐れずに、中途半端な真実は棄て去り、完全な真実だけを掴み取りなさい。

                   L・W・トライン