「名前」を巡る歴史
名前にまつわることは、歴史的に見てもとても意義深いものがあります。
実は、名前そのものが西洋の伝統的な言語観や世界観のカテゴリーではうまく処理できない厄介者だったそうです。
古代ギリシャ時代をはじめとして20世紀に至るまで、
西洋では「形而上学」という風変わりな学問においても、無理くり取り扱われてはきていますが、
哲学史上初めて「名前」をその対象としたのは、プラトンさんとアリストテレスさんだったとのことで、
「存在するとは名をもつということだ」
としていたそうです。
それにしても、
モノに名前があるのはいいとしても、神様にまで名前があるのはどういうことなのか、、、
だって、神様って創造主だから名付けの親は、神様ですよね。ということは二重に名前がついちゃっているんでしょうか?
しかも、聖書の世界では、
神は「在りてあるもの」と、ユダヤ教の聖書(旧約聖書)で自分の名前を明かしていますから、、、。
つまり、ユダヤ教においてはシナイ山で神は自分の名前をモーセに明かしていますが、
神の名前は神と同じくらい神聖なものとされ、人々はそれをみだりに口にしてはならなかったそうです。
その結果、あまりにも神の名前を神聖視しすぎていたので、
ついにはどれをどう発音していいのかがわからなくなってしまったのだそうですよ。
せっかく教えてもらったのにね、、、。
「名前」は
外からやってくる
それでは、人間世界に話を戻しましょう。
そう、神様も人間から呼ばれていたように、、、(結果的には人間はその名を口にはできなかったけれど、、、)
ほとんどの場合、名は他者から呼ばれるものです。
自分の名前を自分で呼ぶことは、幼児期でない限りそうありません。
ということは、「名前」は他者のためにある・・・とも言えます。
そもそも「名前」は自分でつけたものではありませんし・・・
誰かに名付けられた・・・ということは、
名前は外側からやってくるという意味で、被造性(創られし存在)を帯びていると言っても良いでしょう。
その意味で、
自分の「名前」のことを、一度は哲学しておく(ちゃんと知っておく)必要があるのです。
名前を哲学するってこと
Take=受け取る(受動)ことから始まっているわたし達の人生です。
そして今、
Give=じぶんから動く(能動)・生み出すことで、お返しをする番が来ています。
そこで、
その手がかりを「名前」に求めようということなのです。
ところで、
天からの恵みへのお返しをするのには誰かを幸せにすることだということですが、
わたし達は多くの他者の中で生きています。
この小さな地域の中でさえ、自分の家族とそれまでに出会った何人かの人以外は、全部知らない人です。
よくコミュニケーション(「対話」)が大切と言われますけれど、他者の方が多いこの社会の中でそれを成立させるには、かなりの努力が必要ですしおそらくそれは不可能でしょう。
つまり、「対話」が成り立つためにはその相手が目の前に居合わせなくてはならないし、
その「対話」が真の人間関係を可能にするとしても、それが成立するのはごく限られた範囲にしか及びません。
つまり、わたし達が体験している共同体の大部分は、一度も会話をしたことのない人々から成り立っているわけです。
それどころか、人類の大部分はいつだって不在なのです。
「名前」はこうした部分つまり「対話」の欠点を補ってくれることはお分かりいただけるでしょうか?
最初にお伝えした通り、
「名前」は外からやってくるのですから、いつでも「他者」の存在を前提としています。
なので、その名前を持つ人が不在となっても、その機能は発揮されることになります。
その意味で、「名前」こそが「対話」を補うものとして機能するというわけなのです。(参考文献:『ベンヤミン・コレクション』第一巻、ちくま学芸文庫)
「人」と「人」の「間」に息づき、営みをするわたし達です。
そのわたし達に与えられたもの、それが・・・
「名前」
少し横道にそれることになりますが、それは真の人間関係を生み、共同体その全体を作り出している人々が、
固有な存在でありつつ、多様であることを認めることにも繋がっていくという、壮大な話になるのですが、、、。(これは別の話になるのでこの辺りで止めておきます)
さて、「名前」はそれほどに深遠でわたし達をつなぐ「言葉」の問題にも触れていきそうなテーマです。
ずいぶんと遠回りをしてしまいましたが、
それでは・・・
早速・・・
「千と千尋」の物語を参考にしていくことにしましょう。
「名前の秘密」
「千と千尋」の大きなテーマの一つは、「労働」つまり働くということがあります。
成長のプロセスでの「自我」への目覚めが13〜14歳と言われますが、
そのプロセスで「自我」を確立していくためには「労働」が必要とされています。
この物語の舞台は「湯屋」でした。
八百万の神々が客として集う「湯屋」で働いていたハクと、引越し先で迷子になってしまった千尋が主人公です。
そしてこの湯屋の主人は、相手の名を奪って支配する、恐ろしい魔女の湯婆婆(ゆばーば)なのでした。
それではここで、
様々なキャラクターのいる中でも、特に気になるカオナシを取り上げてみることにしましょう。
カオナシは、千尋たちの働いていたその同じ湯屋で働いている、湯婆婆の双子のお姉さんの銭婆(ゼニーバ)の元で働いていたのです。
そのことを、千尋は『あの人(カオナシ)は湯屋にいるからよくないの』と言っています。
そうした、(湯屋に象徴された)資本主義のもとで働くと、アイデンティティ(つまり名)が剥奪されてしまうからだというのです。
組織という中での規則や階級で自分や他人を支配されたり、管理され続けたりすることで、わたし達はいつの間にかその歯車の一つになってしまう。
そしてそれに支配されていることにさえ気づかない状態のまま生きていくことになります。
これが「自分がない」と言う状態を生み出します。
「言葉」が持つ力
宮崎駿監督は「言葉の力が軽んじられている現代において”言葉は意志であり、自分であり、力”である」ということを言っておられます。
ですから、このテーマに基づいて製作されたこの作品の中で、
自ら言葉を話すことのできないカオナシは「言葉を話すことができない=意志がない=自分がない」と言う存在の象徴とも言えるでしょう。
その後、千尋は様々な体験をした後(成長した後)湯屋を出ます。
その湯屋で出会っていたのが・・・
そう・・・
ハクです。
が、ハクは、魔法使いの見習いとして湯婆婆の弟子という立場で、湯屋の番頭として帳場を預かって働いており、湯婆婆にとっても重要な存在として描かれています。
本当の名前
白龍としての姿をもつ「ハク」も、
実は千尋と同様に湯婆婆との契約で名前を取り上げられ、自分の名前もすっかり忘れてしまったことが作品の中でも明らかになっています。
仕事を持たない者は動物に変えられてしまうとハクは千尋に教えます。
そこで千尋は雇ってくれるよう湯婆婆に頼み込み、名を奪われて「千(せん)」と新たに名付けられ、湯屋で働くことになるのでした。
こうして千尋も湯屋という資本主義の枠組みの中に組み込まれてしまっていましたが、二人は働くことを通してともに成長して生きていきます。
そして、その後ハクは本当の自分の名前を思い出して、
湯婆婆(資本主義・物質性)の支配から解放されていったのでした。(自我の向こうにある霊性としての「じぶん」との再邂逅)
ハクは湯屋での姿では「少年」として描かれましたが、
湯屋を離れる時は「白龍」として描かれています。(そう、白龍は川の神様としてのハクの本質の姿なのでしたね)
ハクの本当の名前は、
「ニギハヤミコハクヌシ」
もちろん、千尋も豚にされてしまった両親から卒業して、自分自身の内面にある「霊性」(自我の向こうにある永遠に続く魂=「わたし(魂)」)を取り戻していきました。
このように・・・
自分の名前をただの「記号」として見るだけではなく、見方を変えれば、
わたし達も千尋と同じように「本当の名前」をもう一度手にすることができます。
つまり、
社会的役割としての「自分」にとどまらず、
「じぶんの本質」を生きる(霊性を取り戻す)ことができるようになるのです。
これが、
資本主義の中で物質だけにとらわれてきてしまった、わたし達のものの見方の歪みを正して、
見失ってしまった「霊性」を取り戻すことを意味していますから、
真実のじぶんを生きることが重要とされているという所以なのです。
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